六十年の眠りから醒めた 

松戸神社
 四神復活顛末記

松戸八ヶ町(現在は十二ヶ町)の総鎮守、松戸神社には、六月に秋葉神社、そして十月の松戸神社の祭がある
 

松戸神社の四神
「昔の松戸の祭は四里四方から人が集まった、そりゃすごい祭だったよ」
「四神、大榊、屋台、そして神輿で・・・・」
「各町内が周り番で、それぞれの役を受け持ったんだ・・・・」

夏の秋葉神社、秋の松戸神社の祭礼になると、神酒所に集まった町内の古老から、こうした話がでる。戦後生まれ世代の松戸っ子にとっては、古老から聞かされるこうしたかつての「松戸の祭」は、半ば伝説上の物語であった。そして祭の現場を担当する若い町衆にとっては、そうした祭の話はまだ見ぬものへのあこがれとなっていた。

昭和50年、伝説的な存在のひとつであった松戸神社の大神輿の渡御が三十年ぶりに復活された。伝説の一部が再現された。その後松戸神社の祭は全国的な祭ブームもあって年々高まりを見せていった。

昭和64年1月7日、昭和が終わった。
平成の初めての祭、六月の秋葉神社は自粛されたが、十月の松戸神社の祭は若干控え目な気分ながら、例年通りとり行われた。
しかし遠慮気味だったその祭礼は、記念すべきものとなった。
祭礼後の後片づけの時に、塗りのはげ落ちた、ところどころ損傷した奇妙な形をした動物四体が神社神輿倉の片隅からでてきたのである。

それこそが若い衆が話には聞いていたが、いまだに一度も見たことのなかった伝説の四神だった。
平成最初の祭に、幻の四神が戦後生まれの松戸町衆の前にはじめて姿を現したのである。



幻の四神は、神社総代の総意の下、修復のため日光に移されることになった。
すでに修復された大神輿、そして四神もよみがえることになり、古老の話の中でのみ生きていた「四神、大神輿、獅子屋台、大榊の渡御による伝説の松戸の祭」に復興の兆がみえがじめた。なんとかして伝説の祭を復興させたいという機運が盛り上がってきた。だが、いつかは実現させたいと思っていたものながら、いざ現実となると問題が山済みである。

以前の資料がほとんど無い。写真も神社に残っている黄ばんだ、印画紙の薬剤がはげた、部分的なもののみで、祭礼の全貌がどんなものかを示す資料が見つからない。
だいいち四神の扱いかたをふくめ、そうした祭りの細部については十人に聞くと十人がそれぞれ違った記憶のようで、どれが本当やらまったくわからない。

「前にやったのは六十年ぐらい前かな?」
「提灯行列はシンガポール陥落の時で、大きな祭りをやったのはいつだったけか・・・・・・」等、古老の話もなんとなく頼りない。
四神の渡御についても部分的には憶えている古老はいるのだが、その記憶もまちまちで、本当のところがどうもはっきりせず、祭の全体像がつかめない。

もっとも無理もない話で、もし約六十年ぐらい前だとすると、現在神社総代の最長老で八十を越えた宮前町の「高橋せともの店」の高橋四郎吉翁にしても、当時は二十歳そこそこの若い衆で、実際に祭礼に参加していても、まだ祭礼全体のプロデュースにまでは加われる年齢ではなかったはずである。

幕末の頃、長州の間者が本町上横丁の寺に住んでいたが、その間者は画才があり、当時の松戸の祭を描き、それを軸にしたものを松戸神社の近くで宮前町におられる松戸でも有数の旧家である倉田さんが所有している、という話を聞いた。
ありがたい。それで祭の全体像がわかるはずである。よろこび勇んでお伺いしたところ、神輿、四神、獅子屋台、大榊の四幅からなっているもののうち、現在あるのは大榊のものだけとのことで、残念ながらここでも全体像はつかむことができない。

東京羽田の「六郷神社」に四神があるというので行って問い合わせても、通常一般公開はしないし、また祭礼にも使わないとのことで、ここでも四神の使い方を知ることはできなかった。
なんとか再現させたいと思いながら、それは一体どこから手を付けていいかわからない巨大なプロジェクトだった。


しかしその時、今にして思えばなぜその頃(平成元年・大嘗祭前年)であったか不思議なことだが、その復活を中心的に、しかし蔭から支えてくれた杉山二郎先生との出逢いがあったのである。 

杉山先生はかつて松戸市根本において開業をされていた杉山医院(現在は松戸東口駅前・眼科医院)の二男で、ながく国立博物館東洋考古室長を勤められ、当時国立長岡技術科学大学教授をされていた(現在仏教大学教授)。また、日本における仏教美術、東洋美術の権威で、現在も三笠宮崇仁殿下の主催する日本オリエント学会の常任理事をつとめられている。

松戸の祭を、子供の頃の記憶で断片的ながら憶えていた先生は、四神の出現に興味をもたれたようであった。

四神が東西南北をしめすものであることや、落語の「百川」にでてくる四神旗、また祭の時に神輿と榊が喧嘩しないように間に入るものらしい、ぐらいの知識しか持ち合わせていなかった若い松戸っ子は、その後多忙の先生に時間を割いていただき、日頃あまり縁の無いアカデミックな立場からも神社祭礼、四神についての知識を学ぶようになる。

学者でありながら、学者らしからぬ、平易な、ベランメイな語り口の先生から、若衆は四神や祭礼行事、そして、あらためて「先祖の残してくれたもの」の大きさを理解するようになった。また、平成の即位の大典、大嘗祭の前年における四神の出現を、これも学者らしからぬ、超自然的な、神がかったような、因縁話なども加えながらの先生の説明によって、一年後の秋の祭に「かつての松戸の祭」を復活させること、それこそがこの地に生まれ育ったものが果たすべき「伝統を継承する責務」として、若い衆の胸にしっかりと刻みこまれたのであった。

先生からのレクチュア、断片的ではあるが貴重な古老の体験談、宮司の意見、神田明神の祭の見学、四神を所有する神社への問い合わせ、資料検討等、約一年の準備期間をあっという間に過ぎ、平成二年十月十四日を迎えた。六十年ぶりといわれる「松戸の祭」復活の日がやってきたのである。

それは単なる再現ではない。町衆の祭りとしての伝統を守りながら、理論的な裏づけを持つゆるぎ無いものとして、しかもかつて無い規模(古老の話)で祭はとりおこなわれた。

前日の雨、そして当日も雨という天気予報が「モノの見事な大はずれ」となった日本晴れの下、午前九時式典、十時三十分召立(神官による祭礼行列の呼び出し)と予定通りにことははこばれ、午前十一時、神社提灯を先頭に参加人員は600名を越え、300m以上に及んだ大行列は松戸神社を出発したのである。行列は以下の構成である。

      
  
                             昭和初期の四神と獅子屋台 角町三叉路で Yamamuro様提供

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追 記
多くの方のご努力により、また天候にも恵まれ、この大祭がなんとか無事に終了し、そして現場担当者の一人として参加する事ができ、その責任の一端を果たすという巡り合わせを得たせたことは、参加町衆にとってまことに無上の喜びであった。その祭礼の余韻のさめぬ平成2年11月24日、東京テレビ(12ch)「極めるⅡ」『四神伝説』(ナレーター:奈良岡朋子)において、祭礼の様子は全国に放映された。それは再び松戸町衆に感激と新たな知識を与えてくれるものであった。
四神と四神旗の渡御(松戸駅前

その録画を神社役員、古老、現場担当の若い衆が共に見た「御日待」の席は、あらためて四十日前の感激をよびおこすものであり、永久に記録されたこのたびの「松戸町衆の祭」の輝くばかりのフィナーレとなったのである。

それは先祖の残してくれた大きな遺産であったにもかかわらず、その価値についてなにも知らなかった松戸町衆を目覚めさせてくれたばかりでなく、「四神」というモノ、そして「松戸神社の四神」を全国に知らしめ、さらに、もしいつの日か日本の祭の中では眠ったままになってしまっていた全国の「四神」がよみがえったとしたら、松戸こそがその先駆けであった、ということを容易に想像させる、松戸っ子にとってまったく思いもかけなかない、痛快極まりないものであった。

と同時に、高松塚古墳から始まるこの番組は、如来像と花札、古代皇室行事とお酉様のかかわりを経て、松戸神社四神および松戸町衆に至る古代から現代までの日本文化の流れを、歴史的重要美術品の紹介をも含めながら誰にでもわかりやすく解説し、「町衆のお祭」を通して日本の歴史、文化を考える機会を与えてくれたもので、この高密度の30分は、手前みそながら日本人にとっての傑作番組として永く歴史に残るのではないかとまで感じられるでものであった。
これもひとえに杉山先生のお骨折りによるものである。先生に深く感謝すると共に、この傑作番組のナレーションをご紹介させていただきたい。
東京テレビ(12ch)「極めるⅡ」 『四神伝説』
稲葉八朗 記
本顛末記は、松戸史談会々長秋本勝造氏のご依頼により、まとめたものです。
【松戸史談会第31号】 掲載